2008年2月1日金曜日

時間芸術

例えば400年前の人々と現代に生きる我々が同じ価値観や美意識を持っているとは思えない。
移ろいやすく普遍性などないのが人間の感性ではないか。
だからといって、過去の遺産を我々の好みに合わせて改編することが許されるわけではない。

17世紀フランドルの画家、ルーベンスの「最後の審判」に描かれている人物。
そのほとんどが極めて不自然なポーズをしている。
ここで作品の解説をするつもりはないが、我々が何の予備知識もなく現代人の感性だけで作品を眺めても共感できる部分は少ないはずだ。
この宗教画に描かれた場面の意味合いのみならず、そこに秘められたレトリックや時代背景、強いてはバロック芸術の特徴といったことが理解できなければこの時代の作品を読み解くことは難しい。
もっとも、それが故に現代人の感性にマッチするよう手直しすることなどあり得ないだろうが…

絵画や彫刻は作品そのものが形として残っている。
音楽はどうだろうか。
楽譜という媒体で残されたものはあくまで素材であって音楽そのものではない。
美術と音楽の決定的な違い、それは時間芸術である音楽は演奏された瞬間にしか存在し得ないという点だ。
しかしながら演奏するのは紛れもなく我々現代人である。
だが残された楽譜だけから当時の音楽を鳴り響かせるのは困難だ。
特に古典派以前、バロック音楽においては楽譜にすべてが記されているわけでもなく、現代の楽典で事足りるものでもない。
ここに解釈の罠が潜んでいる。
現代人の感性に頼りすぎ、様式感の欠如した演奏は作品本来の姿を歪めてしまう。
例えばルイ・クープランのプレリュード・ノン・ムジュレ。
小節線がなく、拍子もなく、すべてが白玉で書かれている。
楽譜だけ渡されても演奏することは困難だろう。
仮に弾けたにしても、際限なくロマンティックに仕上げることもできてしまう。
時間芸術の難しさはそこにある。

0 件のコメント: