チェンバロとピアノはまるで違う。
買ってもほとんど使う機会のないHANONをやってみた。
ピアノでは定番の練習曲集だ。
まずだいいちチェンバロだと鍵盤数が足りないよ〜(-_-;)
それに普段はオールドフィンガリングで弾いてるから、モダンフィンガリング忘れてる!!
とりあえず足りなくなったら折り返すってことで弾いてみたものの、ゆっくりでやっと弾ける程度。
たとえこれがさらさら弾けるようになっても、実践で役に立つものなのかねぇ(-_-;)
5度以上の跳躍はたまに出てくるけど連続することはないし、ピアノ曲みたいにあちこち音が飛ぶなんてことは、スカルラッティやラモーでも選曲しない限りまずない。
17世紀の鍵盤作品を弾いてるぶんにはHANONなんて不要じゃないのかな…
つーか チェンバロでHANONは弾くなってことか!!
2007年9月30日日曜日
2007年9月28日金曜日
よい指 悪い指
17世紀の鍵盤音楽を弾く上で、当時の運指法の原則は知っておくべきだと思う。
現代ではあらゆる面で均等化がよしとされるが、400年前はそうではなかった。
5本の指はそれぞれ長さが異なるし、親指に至っては他の4本とは違う向きに付いている。
それぞれの指について能力の均等化を目指すのではなく、むしろ異なる能力をそのまま音楽の中に生かそうと考えていた。
5本の指は「よい指」と「悪い指」に分かれ、強拍には「よい指」を、弱拍には「悪い指」を用いることが普通だった。
ただし、どの指がよいのか悪いのかは地域によって異なるため、作品に応じてよく検討する必要がある。
実際にはアーティキュレーションやフレージングが絡み合ってもっと複雑なのだが、運指を決定する仮定で根底となるのはそこだろう。
現代のように弾き易さがこれらに優先されることはない。
現代ではあらゆる面で均等化がよしとされるが、400年前はそうではなかった。
5本の指はそれぞれ長さが異なるし、親指に至っては他の4本とは違う向きに付いている。
それぞれの指について能力の均等化を目指すのではなく、むしろ異なる能力をそのまま音楽の中に生かそうと考えていた。
5本の指は「よい指」と「悪い指」に分かれ、強拍には「よい指」を、弱拍には「悪い指」を用いることが普通だった。
ただし、どの指がよいのか悪いのかは地域によって異なるため、作品に応じてよく検討する必要がある。
実際にはアーティキュレーションやフレージングが絡み合ってもっと複雑なのだが、運指を決定する仮定で根底となるのはそこだろう。
現代のように弾き易さがこれらに優先されることはない。
2007年9月25日火曜日
Bachは弾かなーい
自分がバッハを弾かないのはバッハが嫌いだからではない。
かつては大のバッハファン バッハ狂 バッハ信者だった。
いつもバッハを聴いていたし楽譜もたくさん買いあさった。
宗教論争のようなチェンバロ vs ピアノの争いで、ほとんどバッハに対する興味が失せてしまったのが理由のひとつ。
チェンバロを習い始めていろいろなバロック作品に出会ううちに、バッハの異質さに気づいてしまったのも理由のひとつ。
そう、自分のようなバロックの鍵盤曲を弾く者から見れば、バッハこそ異質な存在なのだ。
他に類を見ないほど独特の構造的緻密性を有する対位的音楽形式。
その異質さからあまりに洗練された近代性すら感じ取ってしまう。
自分の琴線に触れたのはもっと荒削りで武骨な17世紀の音楽だった。
バッハには中毒性がある。
ひとたび接してしまうと他に眼が行かなくなってしまう。
ピアノ弾きがショパンを溺愛するがごとく、
「バッハこそ音楽の原点」
「バッハがわたしのすべて」
「バッハを弾くのがライフワーク」
そんな人が世の中たくさんいるわけで…
だがしかし 自分はそうなりたくないのだ!
かつては大のバッハファン バッハ狂 バッハ信者だった。
いつもバッハを聴いていたし楽譜もたくさん買いあさった。
宗教論争のようなチェンバロ vs ピアノの争いで、ほとんどバッハに対する興味が失せてしまったのが理由のひとつ。
チェンバロを習い始めていろいろなバロック作品に出会ううちに、バッハの異質さに気づいてしまったのも理由のひとつ。
そう、自分のようなバロックの鍵盤曲を弾く者から見れば、バッハこそ異質な存在なのだ。
他に類を見ないほど独特の構造的緻密性を有する対位的音楽形式。
その異質さからあまりに洗練された近代性すら感じ取ってしまう。
自分の琴線に触れたのはもっと荒削りで武骨な17世紀の音楽だった。
バッハには中毒性がある。
ひとたび接してしまうと他に眼が行かなくなってしまう。
ピアノ弾きがショパンを溺愛するがごとく、
「バッハこそ音楽の原点」
「バッハがわたしのすべて」
「バッハを弾くのがライフワーク」
そんな人が世の中たくさんいるわけで…
だがしかし 自分はそうなりたくないのだ!
2007年9月24日月曜日
2007年9月23日日曜日
考え方はいろいろだけど
結構前になるが、ある新聞に某ピアニストの記事が掲載されていた。
あまりに有名なその人の発言に愕然とするとともに、落胆というかやるせないというか、そんな気分になってしまった。
ひっかかったのは大きく2つ。
★楽器
"モーツァルト時代のピアノは発展途上で、作曲家はより大きな音を求めた。
そういう事情を無視して同時代の楽器で弾きさえすれば、より「真実」に近づけるという考えは安易だ。"
本当にそうだろうか…
確かにヒストリカルな楽器を単に弾くだけでは意味が無ない。
その楽器にふさわしい奏法や演奏解釈なくしては片手落ちだと思う。
ベートーヴェンなんかは常にピアノに不満を持っていたようだ。
5オクターヴの小さな木枠の楽器だからそれは当然かもしれない。
彼の書く曲にはこの小さな楽器からはみ出さんばかりのエネルギーがある。
だからと言って現代のピアノで弾こうと考えるほうが安易な気がするのだ。
現代に生きる我々も彼が感じていた不満をその時代のフォルテピアノにぶつけてみればいい。
現代のピアノは大きな音と引き換えに音色の鮮明さやデリケートなニュアンスの表現を失ってしまっている。
聴きとれないほど微かなピアニッシモ。
壊れんばかりに悲鳴をあげて鳴り響くフォルテッシモ。
どれも余裕のある現代ピアノでは体験できないものだ。
★楽譜
"音楽家が参照すべき唯一の規範は楽譜である。演奏の歴史や演奏家の個性は余計なもの。"
これも納得しがたい話。
というか、未だにこんな考え方をする人がいるとは思いもしなかった。
しかも名の通った世界的なピアニストが言うとは…
楽譜は素材にすぎない。
そこに作曲家の思い描いた音楽がすべて書き込まれているわけではない。
実際の演奏に際しては必ず解釈がつきまとう。
単に楽譜通り弾いても音楽にはならないからだ。
だいいちロマン派の音楽ならいざしらず、それ以前ともなれば演奏者の解釈に委ねられている部分は少なくない。
当時の楽器を使い、当時の演奏慣習を調べ、自分なりに解釈した上で演奏することの何が余計なことなのだろう。
古楽もずいぶん浸透して市民権を得たとばかり思っていたが、思い違いをしていたのだろうか。
あるいは凡人には理解が及ばない高みに達している方のお言葉だからなのか...
あまりに有名なその人の発言に愕然とするとともに、落胆というかやるせないというか、そんな気分になってしまった。
ひっかかったのは大きく2つ。
★楽器
"モーツァルト時代のピアノは発展途上で、作曲家はより大きな音を求めた。
そういう事情を無視して同時代の楽器で弾きさえすれば、より「真実」に近づけるという考えは安易だ。"
本当にそうだろうか…
確かにヒストリカルな楽器を単に弾くだけでは意味が無ない。
その楽器にふさわしい奏法や演奏解釈なくしては片手落ちだと思う。
ベートーヴェンなんかは常にピアノに不満を持っていたようだ。
5オクターヴの小さな木枠の楽器だからそれは当然かもしれない。
彼の書く曲にはこの小さな楽器からはみ出さんばかりのエネルギーがある。
だからと言って現代のピアノで弾こうと考えるほうが安易な気がするのだ。
現代に生きる我々も彼が感じていた不満をその時代のフォルテピアノにぶつけてみればいい。
現代のピアノは大きな音と引き換えに音色の鮮明さやデリケートなニュアンスの表現を失ってしまっている。
聴きとれないほど微かなピアニッシモ。
壊れんばかりに悲鳴をあげて鳴り響くフォルテッシモ。
どれも余裕のある現代ピアノでは体験できないものだ。
★楽譜
"音楽家が参照すべき唯一の規範は楽譜である。演奏の歴史や演奏家の個性は余計なもの。"
これも納得しがたい話。
というか、未だにこんな考え方をする人がいるとは思いもしなかった。
しかも名の通った世界的なピアニストが言うとは…
楽譜は素材にすぎない。
そこに作曲家の思い描いた音楽がすべて書き込まれているわけではない。
実際の演奏に際しては必ず解釈がつきまとう。
単に楽譜通り弾いても音楽にはならないからだ。
だいいちロマン派の音楽ならいざしらず、それ以前ともなれば演奏者の解釈に委ねられている部分は少なくない。
当時の楽器を使い、当時の演奏慣習を調べ、自分なりに解釈した上で演奏することの何が余計なことなのだろう。
古楽もずいぶん浸透して市民権を得たとばかり思っていたが、思い違いをしていたのだろうか。
あるいは凡人には理解が及ばない高みに達している方のお言葉だからなのか...
2007年9月22日土曜日
2007年9月20日木曜日
解釈の罠
例えば400年前の人々と現代に生きる我々が同じ価値観や美意識を持っているとは思えない。
移ろいやすく普遍性などないのが人間の感性ではないか。
だからといって、過去の遺産を我々の好みに合わせて改編することが許されるわけではない。
17世紀フランドルの画家、ルーベンスの「最後の審判」に描かれている人物。
そのほとんどが極めて不自然なポーズをしている。
ここで作品の解説をするつもりはないが、我々が何の予備知識もなく現代人の感性だけで作品を眺めても共感できる部分は少ないはずだ。
この宗教画に描かれた場面の意味合いのみならず、そこに秘められてたレトリックや時代背景、強いてはバロック芸術の特徴といったことが理解できなければこの時代の作品を読み解くことは難しい。
もっとも、それが故に現代人の感性にマッチするよう手直しすることなどあり得ないだろうが…
絵画や彫刻は作品そのものが形として残っている。
音楽はどうだろうか。
楽譜という媒体で残されたものはあくまで素材であって音楽そのものではない。
美術と音楽の決定的な違い、それは時間芸術である音楽は演奏された瞬間にしか存在し得ないという点だ。
しかしながら演奏するのは紛れもなく我々現代人である。
だが残された楽譜だけから当時の音楽を鳴り響かせるのは困難だ。
特に古典派以前、バロック音楽においては楽譜にすべてが記されているわけでもなく、現代の楽典で事足りるものでもない。
ここに解釈の罠が潜んでいる。
現代人の感性に頼りすぎ、様式感の欠如した演奏は作品本来の姿を歪めてしまう。
例えばルイ・クープランのプレリュード・ノン・ムジュレ。
小節線がなく、拍子もなく、すべてが白玉で書かれている。
楽譜だけ渡されても演奏することは困難だろう。
仮に弾けたにしても、際限なくロマンティックに仕上げることもできてしまう。
時間芸術の難しさはそこにある。
2007年9月19日水曜日
2007年9月17日月曜日
クリスティアン・ペツォルト
「アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳」は有名だけど
その中の
「メヌエット ト長調 BWV Anh.114 / ト短調 BWV Anh.115」
はこれまた超有名♪
しかしだ これはJ.S.バッハの作品ではないのだよ。
長らく作者不詳とされていたけど ほんとは、
Christian Petzold (1677-1733)
が正解!
この音楽帳は当時の作曲家の作品もたくさん含まれているから、全部がJ.S.バッハ作ってわけじゃないんだよー。
なーんて もう知ってたかな?w
その中の
「メヌエット ト長調 BWV Anh.114 / ト短調 BWV Anh.115」
はこれまた超有名♪
しかしだ これはJ.S.バッハの作品ではないのだよ。
長らく作者不詳とされていたけど ほんとは、
Christian Petzold (1677-1733)
が正解!
この音楽帳は当時の作曲家の作品もたくさん含まれているから、全部がJ.S.バッハ作ってわけじゃないんだよー。
なーんて もう知ってたかな?w
2007年9月16日日曜日
メヌエットは何拍子?
まぁ普通は3拍子って答えるよね。
でもここはひとつ 笑われるのを覚悟で2拍子だと言ってみたい!
メヌエットってのは舞曲のうちの1つ。
そして6拍で1セットの踊りなんだよ。
なので 2小節が1セットになるわけ。
そんで 1小節を大きな1拍と捉えて、強拍と弱拍の2拍子に感じられるように弾くと踊りやすいんだ。
チェンバロのレッスンではそんなふうに教えたりするよ♪
ま 結局は3拍子なんだけどねw
でもここはひとつ 笑われるのを覚悟で2拍子だと言ってみたい!
メヌエットってのは舞曲のうちの1つ。
そして6拍で1セットの踊りなんだよ。
なので 2小節が1セットになるわけ。
そんで 1小節を大きな1拍と捉えて、強拍と弱拍の2拍子に感じられるように弾くと踊りやすいんだ。
チェンバロのレッスンではそんなふうに教えたりするよ♪
ま 結局は3拍子なんだけどねw
2007年9月10日月曜日
エコならば
2007年9月9日日曜日
ふえ
さて 笛です。
上の2本が所謂モダン・オーボエです。
上がマリゴ・ストラッサーで下のがロレーdmってやつ。
どっちもセミオート。
オケではロレーを使ってましたー。
リードはショートスクレープタイプのものを愛用っす。
上から3つ目はバロック・オーボエってやつで18世紀頃活躍した楽器です。
もちろんこれはコピー品ですよ念のためw
デンナーモデルというやつで坂本徹氏に製作していただきました。
でも自分には吹けないデス...
音は出るけどね!
いちばん下のはフラウト・トラヴェルソ。
これはバロック・フルートですね。
元の楽器はスティンズビJr.のもので象牙でできていました。
写真のはアウロス製のプラスチックで~す。
でも侮れないんだなこれが!
結構イイ音しますョ♪
あ もちろん曲を吹けるレベルではありませぬ!!!
皇太子サマ♪
2007年9月8日土曜日
まだ早いかね
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