2007年9月23日日曜日

考え方はいろいろだけど

結構前になるが、ある新聞に某ピアニストの記事が掲載されていた。
あまりに有名なその人の発言に愕然とするとともに、落胆というかやるせないというか、そんな気分になってしまった。

ひっかかったのは大きく2つ。

★楽器
"モーツァルト時代のピアノは発展途上で、作曲家はより大きな音を求めた。
そういう事情を無視して同時代の楽器で弾きさえすれば、より「真実」に近づけるという考えは安易だ。"

本当にそうだろうか…
確かにヒストリカルな楽器を単に弾くだけでは意味が無ない。
その楽器にふさわしい奏法や演奏解釈なくしては片手落ちだと思う。

ベートーヴェンなんかは常にピアノに不満を持っていたようだ。
5オクターヴの小さな木枠の楽器だからそれは当然かもしれない。
彼の書く曲にはこの小さな楽器からはみ出さんばかりのエネルギーがある。
だからと言って現代のピアノで弾こうと考えるほうが安易な気がするのだ。
現代に生きる我々も彼が感じていた不満をその時代のフォルテピアノにぶつけてみればいい。
現代のピアノは大きな音と引き換えに音色の鮮明さやデリケートなニュアンスの表現を失ってしまっている。
聴きとれないほど微かなピアニッシモ。
壊れんばかりに悲鳴をあげて鳴り響くフォルテッシモ。
どれも余裕のある現代ピアノでは体験できないものだ。


★楽譜
"音楽家が参照すべき唯一の規範は楽譜である。演奏の歴史や演奏家の個性は余計なもの。"

これも納得しがたい話。
というか、未だにこんな考え方をする人がいるとは思いもしなかった。
しかも名の通った世界的なピアニストが言うとは…

楽譜は素材にすぎない。
そこに作曲家の思い描いた音楽がすべて書き込まれているわけではない。
実際の演奏に際しては必ず解釈がつきまとう。
単に楽譜通り弾いても音楽にはならないからだ。
だいいちロマン派の音楽ならいざしらず、それ以前ともなれば演奏者の解釈に委ねられている部分は少なくない。
当時の楽器を使い、当時の演奏慣習を調べ、自分なりに解釈した上で演奏することの何が余計なことなのだろう。


古楽もずいぶん浸透して市民権を得たとばかり思っていたが、思い違いをしていたのだろうか。
あるいは凡人には理解が及ばない高みに達している方のお言葉だからなのか...

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