2011年10月29日土曜日

もみじ饅頭



広島土産、にしき堂のもみじ饅頭である。

2011年10月21日金曜日

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どうでしょう。

2011年10月10日月曜日

なんでもバッハだね…

NHK FMの『古楽の楽しみ』で、今日の解説がバッハ中心の音楽観に思えて辟易した。

ヨハン・ヒューゴー・フォン・ウィルデラーのミサ曲が、バッハのロ短調ミサ曲の元になったという説があるみたいだけど、そんな情報はウィルデラーのミサを聴く上で必要なこととは思えない。

これに限らず、およそ疎遠とも思える作曲家の解説にまでバッハが影響を受けただのなんだのと熱弁するのは勘弁してほしい。

その作曲家がバッハから影響を受けたのならともかく、バッハが誰から影響を受けたのかが興味の対象のような歪んだ聴き方をするぐらいなら、素直にバッハだけ聴いていればよかろうと思ってしまうのは偏屈なのだろうか。

2011年9月25日日曜日

G.Frescobaldi - Corrente Prima の楽譜

最近さらい直しているFrescobaldiのCorrente Primaの楽譜。こうしたファクシミリ版の楽譜を見て弾くのにもようやく慣れてきた。

2011年9月10日土曜日

弾いてたな…

過去に弾いた楽譜を引っ張り出してきたら、フローベルガーだけでも結構あって自分でもちょっとびっくり。
いろいろと弾いてたのにすっかり忘れている。

組曲、トッカータ、カプリッチョ、カンツォン、パルティータ、リチェルカーレなど。
ファンタジアはなぜか1曲も弾いていない。

あの頃も弾けると言えるほど弾けていた訳ではないけれど、今となってはまったくもって弾けない状態。

ちょっとまずいな、というかもったいない。

リチェルカーレはゆっくりしたものが多いので、指がまわらない自分には好都合だった。
そのぶん音楽的な掘り下げに興味を持って行きやすい。
何よりも、心奪われる旋律が多いのもチェルカーレが好きなところ。

このへんも徐々にさらいなおして、持ち曲を増やせれば…

フローベルガーの師であるフレスコバルディのリチェルカーレは弾いたことあったのかどうか思い出せない。
楽譜が見当たらないから弾いていないのかも。
折を見て弾いてはみたい。

2011年9月6日火曜日

作曲家遍歴


これまで弾いてきた曲種はさまざま。
でも作曲家だけ書き出すと意外と少ないのかも。

習い始めの頃はだいたい次の2つの曲集からつまみ食い。

マリア・ボクソール ハープシコード・メソード
フィッツウィリアム・ヴァージナル・ブック

おそらく誰もが弾くであろう、バード、ファーナビー、ギボンズ、ブル、ダウランドあたりは短くて弾きやすくて楽しい。
他にも曲集はやった記憶があるけど名前を忘れてる…

その後の主な作曲家遍歴は次の通り。

パーセル
カベソン
スウェーリンク
フレスコバルディ
フローベルガー
シャンボニエール
ルイ・クープラン
ピッキ
ストラーチェ
ロッシ

19年でこれはやはり少ないのか。
忘れているのも結構ありそうだけど、記憶に留まらない程度の存在なのかな。

これからやってみたいのはもっと少ない。

ダングルベール
トラバーチ
メールロ
グアーミ

ケルル、ムファット、ブクステフーデ、ヴェックマン、パッヘルベルあたりも弾いたことはない。
フローベルガーを除いてドイツ系の音楽家はちょっと苦手かも。
なので今のところ積極的に弾いてみたいとも思わないかな。

そして、おそらく今後も弾くことはないであろう作曲家たち。

J.S.バッハ
ヘンデル
ベーム
フィッシャー
D.スカルラッティ
ガルッピ
ダカン
F.クープラン
マルシャン
フォルクレ
ジャケ・ド・ラ・ゲール
ル・ルー
ラモー
デュフリ
ダンドリュー
バルバストル
ロワイエ
その他18世紀の作品

こうして並べると、自分の嗜好が16~17世紀に思いっきり偏ってるのがよくわかる。
なぜだかどうしても18世紀ものは弾く気にならないまま今日に至る。
たぶん人気は圧倒的に18世紀の後期バロックものなんだろう。
聴くのは好きなんだけどなぁ。

常備曲


趣味であっても長らく音楽演奏に携わっていたら誰しも常備曲のいくつかはあるものなのかもしれない。
振り返ってみると、自分にはそれがない。
悪い言い方だけど、どれもこれも仕上がることなく弾き捨ててきた感がある。

これまで常備曲がなかった理由のひとつは、誰かに聴かせる必要がなかったからなのかもしれない。
もちろん最大の理由は、その時さらっている曲で手一杯だということ。

前だけ向いて歩いていても楽しくないなぁ。
過去に取り組んできた曲は、その時チェンバロで弾きたいと思っていたものがほとんど。
立ち止まって過去を手繰り寄せるのもいいことだ。

2011年9月4日日曜日

初心に戻る

昨日はロッシのトッカータをさらったり、めずらしくバッハの2声のインヴェンション第1番を弾く努力をしてみたり。
でもやぱり難しくて弾けず、たぶん気持ちの問題なんだろうけど。
いろいろ悩みつつ、とりあえずしばらく初心に戻って過去に弾いた曲を引っ張り出してみることにした。

まずはフレスコバルディのコレンテかな。
これはフレスコバルディの入門でよく弾くことになる曲だと思う。
4つ束になっているうちの、1曲目を弾いてみた。
もうすっかり忘れてて譜読みからやり直し。
ちょうどいいので現代譜ではなくファクシミリ版を使うことにした。

弾けるようになるまでに時間がかかりそうだな…

2011年8月31日水曜日

運指


17世紀イタリアの鍵盤曲を弾く時の運指を考えてみた。
「よい指」が2であることを前提にすると、こんな感じかな。
これが適切なのか自信がない。
2小節目の後半にかけてアッチェルランドしたいけど、かなり困難だな。

2011年8月30日火曜日

曲選び

チェンバロを習い始めて19年目に突入した。
その情報だけだと相当弾けるのではないかと誤解されそうだけど、実際には初心者と変わらない。

これまで弾きたい曲だけを選んで練習してきた。
平日は練習時間がほぼなく、休日にまとめてさらう状況なので、1曲にかける時間はどれも長くて曲によっては半年ぐらい引っ張る時もある。

1つの曲が終わると次の曲に集中するため、常時弾けるのはその時さらっている曲のみ。
みんな過去にやった曲って弾ける状態を保っているものなのだろうか。

弾きたい曲はたいてい難しい。
自分の技量に適っているとは限らない。
むしろ常に無理して弾いているのかもしれない。

本当はもっと身の丈に合った曲を選んで、基礎を固めるべきだったのだろうか。
演奏技術面を考える時、26歳から始めた点を差し引いてもあまり上達したとは思えない。
毎日練習できていないのも原因ではあるが、無理な選曲がいけないような気もしている。

今後はどうすべきなのか、これまでのように好きな曲を選ぶだけでいいのだろうか。
最近はずっとそのことを悩んでいる。

初のチェンバロ練習会

京王線の千歳烏山駅の近くにあるユーロピアノでは、ノイペルト社のチェンバロを取り扱っている。
ノイペルトと言えば、かつてはモダンチェンバロを製作していたことで有名だが、オリジナル指向な昨今ではヒストリカルなチェンバロを製作する方向に切り替えたらしい。
そこにはチェンバロ練習室があり、チェンバロ教室が現在2名の講師陣で運営されている。
当然のことながらピアノ練習室もあって、防音されているとはいえ結構な音が漏れてきたりする。
どこのピアノ販売店でもそうなのだが、試奏する音は半端なく強烈だ。

さて、8月最後の日曜日、そのユーロピアノのチェンバロ練習室で、Twitterで知り合ったチェンバロ愛好家の方と初の練習会を開いた。
今回はお互いに17世紀イタリアの作曲家であるミケランジェロ・ロッシのチェンバロ作品のうち、偶然に3曲とも同じものをさらっていたことで意気投合し、実際にチェンバロを前にしていろいろ探ってみることになった。
その方のピアノ歴は実年齢とあまり変わらないぐらいで、チェンバロ歴はユーロピアノで10年ほど習われているとのこと。
想像通り指は華麗に動き、フローベルガーやルイ・クープランも初見である程度弾けてしまう感じ。
この辺りは大人になってから始めた者には到底越えられない壁だ。

チェンバロを習い始めるきっかけは様々だろうけど、愛好家のみならずピアニストも含めて、やはりバッハを弾きたくてチェンバロに到達する人が一番多いようだ。
それからこの教室の講師の方がフランスで研鑽を重ねてきたこともあるせいか、ラモーやF.クープランに固執する生徒もいるらしい。
他にはルイ・クープランに傾倒している人、フレスコバルディばかり弾いている人もいるとか。
バロック全般をそつなく学ぶ人もいれば、何かひとつ目標を絞って狭く深く掘り下げる人もいる。
後期バロックの有名どころの大作曲家が好きな人が多い中、あまり取り上げられないけれど素晴らしい作品を残している初期・中期バロックの作曲家を好む人もいる。
人によっていろんな関わり方があってよいと思う。

自分は途中で破綻したものの、ロッシを弾き比べてみて感じたこと。
個性も然ることながら、先生の思想の違いが結構あることに気づいた。
フランスでフランス人に師事し、フランスのクラヴサン音楽を中心に学んできた人と、16~17世紀のイギリスやイタリアの鍵盤音楽を掘り下げて学んできた先生とでは、その音楽の方向性が違って当然ではあるのだが、学ぶ側はそのことをもっと意識すべきなのだろう。

お互いの先生の解釈で、いくつか気になった点を掲げておこう。

トッカータの開始部分に置かれる和音は記譜通りではなく、アルペジオや装飾を付加するのは奏者の責任だが、書いてない音を入れるか入れないかで意見が分かれる。
和声的に問題なければ補充するのは可だと思ってたし、そのように習ったが、それを否とする先生もいるということか。

半音階的なパッセージは、ルネサンス時代には「悪魔の音階」として教会の中では禁則事項だった。
バロック音楽はそうしたルネサンスの均整を打ち砕く側面が強く、まさに頽廃した音楽であったのだが、17世紀初頭では半音階はまだ特別なものだった。
特別であるが故に、当時の作曲家はこの半音階進行を曲中の一番おいしいところへ配置することが多く、ロッシのトッカータ第7番では最後のセクションが長大な半音階で構成され、ほとんど調性すら崩壊している。
この半音階をどのように弾くか。
フランスで研鑽を積まれた先生の指導曰く、音を切ったほうがイタリア音楽らしくなるとのこと。
音をつなげてしまうとぐにゃぐにゃして気持ち悪いから切るべきとの主張をされたらしい。
まるっきり自分の師とは正反対の解釈だ。
半音階こそバロックのバロックらしいところ。
ここは思いっきりわざとらしく、ぐにゃぐにゃとねじれまくって気持ち悪くなるぐらいに弾けと教わった。

順次進行での上行パッセージはアッチェルランドして突然消える。
これは聴き手が宙に放り出されたような気分になる常套手段であって、両者ともそのように解釈している点で一致した。

だが跳躍進行する場合の解釈は異なっていた。
自分は極力音を切ることを指摘されたが、その点はあまり強く言われないらしい。

運指については決定的な違いがある。
順次進行のパッセージワークのみならず、すべての運指をピアノ同様のモダンフィンガリングで弾かれていた。
自分はとにかくオールドフィンガリングで弾けと事ある毎に言われ続けてきたが、モダンで許されるのも先生次第なのかと、これはちょっと驚きに値する差異だった。

こうして書き出してみると、基本的な部分で結構な違いがあることに気づく。
解釈の違いは奏法の違いとなり、結果的に生み出される音楽もまた違ったものとなってくる。
一概にどれが正解とは断言し難いものもあって、もし先生を変えるような場合には、この辺りのことをよくよく考えないと不幸になりそうな気がしてならない。

さてさて、あれこれ弾きつつ話をしているうちに、2時間の利用時間があっという間に終わってしまった。
持ち寄った楽譜や文献の半分も紹介できず、かといって場所を変えての延長戦も難しい。

そんなこんなで、また秋頃に練習会を開けたらいいですね、とのことで名残り惜しくも解散となりました。

2011年8月9日火曜日

オルガン研究 XXXVII (2009年)

日本オルガン研究会が会員向けに年1回発刊する機関誌「オルガン研究」のXXXVII(2009年)には、大岩みどり氏による興味深い論文が掲載されている。

ジローラモ・フレスコバルディの'la manieria di sonare'
≪トッカータ集題1巻≫(1615)の序文「読者へ」をめぐって

ここではフレスコバルディの諸経歴から、≪第1巻≫についての背景、≪第1巻≫と≪ファンタジア集≫における「作品」意識の違い、「読者へ」に見るフレスコバルディの演奏法などが論じられている。
また、初版(1615)と第5版(1637)の序文については、イタリア語の原文とその邦訳、さらには楽譜による具体的な例とその解説が記載されており、フレスコバルディやそれ以後に書かれたトッカータをはじめとする17世紀イタリア音楽の演奏法について極めて重要な資料であることは間違いない。
そのような音楽作品の演奏に携わるのであれば必読すべき文献である。

なお、機関誌「オルガン研究」は日本オルガン研究会の会員以外でも実費にて購入が可能であったと記憶している。

Michelangelo Rossi : Settima Toccata


これはロッシのトッカータ第7番の冒頭7小節である。

上段は6線譜、下段は8線譜で、17世紀の記譜としては一般的なものだろう。
調号からはこのセクションがニ短調であることがわかる。

拍子記号は"C"となっているが、何分の何拍子に見えるだろうか。
1小節目の下段を見ると、全音符がひとつに二分音符が2つある。
2小節目から6小節目までは二分音符2つ分、7小節目は二分音符4つ分ある。
小節線は書いたり書かなかったりということもある。

上段の音部記号はソプラノで始まり、5小節目でアルトになるが、7小節目の途中から再びソプラノに戻っている。
下段はバスとバリトン(?)が併記されている。

冒頭の和音、左手はオクターブとさらに3度上の3音を弾くことになり、10度の開きがある。
クロマティックな音列の鍵盤では指がもげそうになる。
おそらく当時はショートオクターブの楽器で弾いていたのだろう。

フレスコバルディの9箇条に従って、冒頭の和音はゆっくりとアルペジオで装飾的に弾き、このセクションの終わりとなる6小節目までをひと息で弾ききるようにする。
ソプラノ声部に現れたパッセージはテノール、アルト、バスに受け継がれて行く。
水が上から下へ流れるように、アッチェルランドしつつ6小節まで一気に流れ込むような感じがよいかも。
そして7小節目の前半は加速した分の速度を戻して威厳のある堂々とした和音を響かせると効果的な対比となるだろう。
セクションの終わりとなる3つ目の2分音符は長くとって終止感を出す。
そして7小節目の後半は気分をがらりと切り替えて颯爽と開始するとまた効果的になる。

以上、ざっと見て誰でもすぐに思い当たるようなことだが、たったの7小節だけでも色々と発見がある。
そこがファクシミリ譜の面白さでもあると思う。